次のカウンセリングが3週間後になってしまったので(週1でセラピーに行くお金を親が出してくれなかった)、自分の気持ちが楽になる方法を見つけ出さないといけない。
前回のセラピーでは心理士から「あなた自身が抱えきれないぐらいの攻撃性があるんじゃないか。その他者に向けるエネルギーが、何かミスをしたときなどに自分に向いてしまったとき、強く“死にたい”と思うんじゃないか。それはとてもつらいと思う」と言われた。そして、「その攻撃的なあなたは、ここのセラピーでは現れないでほしい。エネルギーが強すぎて怖いから(笑)」と言われて、すごく悲しかった。その通りだと思ったから。私は人に怖がられてるんだと思った。元カレにも同じようなセリフを吐いたことがあるけど、私自身がそういう攻撃性の向け方をしているようだ。元カレを見ていると、自分を責めたり考えすぎたり、一方で相手のミスを許せなかったりして、もっと気を楽にしたらいいと思っていた。ふわ~っと生きるっていうか、別によくわからない曖昧な物事に理由を付けないで、「まぁそういう日もあるか」って思えると楽になるんじゃないかって、すごい思っていた。それを、まさかセラピストに同じことを言われた。
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他人や自分のことを「許す」ってすごい大事なことだと思う。それができたらどんなに楽なんだろうか。人に何か傷つく言葉を言われたとき、「なんであの人はあんなことを言ってきたんだろう」って理由を考えちゃうんだけど、平均的な人って自分でも説明できないけどなんか口から思わず出ちゃったとか、機嫌が悪かったとか、割とどうでもいい理由が多い。「この人を懲らしめて、傷つけたい」と深い意図があって私を傷つける人なんて、ほとんどいないんじゃないか。そうだとしても、一時的なもので、時間が過ぎ去ればそういういじわるな感情もなくなるんじゃないか。
そう考えたら、人間は単純な生き物なのかもしれない。もっと楽しんで、分からないことも「まぁちょっと不安だけどなんとかなるか」って、あえてなんにもしないでやり過ごす、そういう術を身に着けたいなって思う。
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でも私はセラピストに対して怒りが湧いた。
私のこと、怖いって思ってるんだって。
受け止めてくれてないと思った。
私の体験した話をニコニコ聴いていたけど、それは他人事だからで、自分の身になると怖くなるんだって。正直言って死ねばいいと思った。でも死んでしまったら私は誰に相談したらいいんだろうか。向こうも抱えきれないと思っているんだろうか。
自殺したい。死にたいと思ってしまった。好きな人、信頼してた人にフラれた気分だ。この“死にたい”も、本当は心理士に向けた内なる攻撃性なのだろうか。
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怒りが制御できない。でもこの怒りを何か創作活動に使ったり、人のためになったり、自分を奮い立たせる何かに使えないだろうか。
でもそんなエネルギー、使ってたら疲れるだけなんだよな。
怒りっていうのは性質というか治らないもので、うまく応用するしかないんだろうか。怒りを消し去るというのは、自分を押し殺すことになってしまうのだろうか。
だったら、その怒りを有効活用したほうがいい。というかその怒りに気づかず30年間も生きていたんなら、変えようがない。若い頃に色々指摘されて気づいて、もがいて、治すように努力していたなら変わっていたのだろうけど、もうおばさんだからな。
でもこのまま意地悪なクソババアになりたくない。私のいいところはチャーミングな部分も持ち合わせているところだから。可愛げがあるから。だからそのチャーミングさ&怒りを上手く組み合わせて生きられるとちょうどいいのになぁと思う。
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まぁ、怒ってる人って世の中に沢山いて、仕事のボスなんかもいつも怒ってたけど、その怒りが誰かを救いたい気持ちだったり、人を理解する原動力になったりする。ボスの場合、「なんでこの人はこういうことを言ったんだろう?」「この人とどうしたらうまく付き合っていけるんだろう?」と、合理的に物事を考えて、理屈に合わないことは排除する性格だから、逆に言えば合理的なことができない人たちの気持ちを考えようとする。曖昧な世界を理解しようとする。「わからない」を知ろうとするモチベーションになっているように思える。
私だって、人間関係も分からないことだらけだけど、勉強のことだって、論文を読んでいて「よく分からない」という“ひっかかり”を大事にして丁寧に論文を読むと、いろんな知見が得られることが多い。その“ひっかかり”は研究や勉学においてはすごい大事な能力だと思う。それに、その“ひっかかり”は、平均的な人が気づかない側面や世の中の真理を見抜くある意味貴重なセンスだと思う。
私のアセスメント能力(人のことを見抜く力)は、ある意味その“ひっかかり”、「納得いかない」「よく分からない」を大事にして、その違和感から人物像を見立てる力なんだ。だから、自分の感覚はある意味正しいし、優しいからこそ「なぜそのようなことを言うのか」気になってしまうのだ。
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私は例えば、久しぶりに会った人に「太ったねぇ~!」と体型をいじられたりすると、「なんでそんな無神経なことを言えるのか」と落ち込んで、心の中では怒りで満ち溢れる。向こうは「つい口がすべって言ってしまった」と弁明するのだが、そんな一言、仮に思ってたとしても言わなければいい話だし、今の時代、体型や肌の色など容姿のことをdisるのは時代遅れって分からないのか!と思ってしまう。
そういう、「暗黙の了解」というか、「大人の対応」というか、「考えたら(相手が傷つくと)わかるよね?」というデリカシーのない一言を放つ人が大嫌い。
でも、そういう自分の“ひっかかり”が、他者を思いやったり(自分はこういうことは言わないようにしよう)、自分のことを大事にしようと思ったり(体型のことは気にせず自分を愛そう)という原動力になったりする。だから、自分のひっかかりはすごく繊細で、傷つきやすさと混じってるんだけど、それが自分の生きるポリシーになったりする。
だからいいんだ。強く強く、孤高の人になろう。そして、怒ってもいいけど、他者のこともたまには許してあげて、自分のことも許してあげて、強くなろう。
そんなことを思った。