nekohirokoroom335の日記

何がなんでも楽しく生きるって決めたのだ。

今日整骨院の元カレに「孤独死が怖い。突然心臓発作が起きたら、家はオートロックなので開錠できなくて死んでしまう。開錠できたとしても誰も側にいないから死んでしまう」とネガティブ発言を急にしてしまった。申し訳ないなと思った。整骨院やめたいなと思った。ホワイトデーのお返しもくれないし。でも家に帰ったらスヤァっと3時間ぐらい昼寝出来たから、やっぱり心身ともに疲れてたし、緊張感を解いてくれた元カレの腕は確かなのだと実感した。

安心できているのだろうか。それはいいことなんだろうか。元カレもいずれ死んでしまう。

 

自分の健康不安みたいなものがずっとある。

はやく仕事に行きたいけど、仕事がバーっと入っていたらどうしたらいいんだろうか。

 

今日近所の某大学にスタバが出来て、とても嬉しかった。

散歩に行って、桜の写真撮って、スタバでゆずティーを飲んだら、すごくいい気分になった。生きているっていいなぁ、意外と悪くないのかもなぁと思った。

過去の私がしでかしたこと、罪悪感みたいないものも確かに感じられるけれども、前を向いて歩いてもいいんじゃないか?と思った。もうs先生と喧嘩してから2年近くは経過しているんじゃないか。mtuさんなんて、2017年の出来事だから、もう6年経ってるんだね。私が25歳ぐらいの時かぁ・・・。そろそろ時効かなぁと思った。

向こうも会社を立ち上げたり、元気そうにしてくれていることが、あのことを忘れさせてくれる。もういいんだ、自分も自分の道を歩まなきゃだめなんだと思った。

 

首を吊りたいという希死念慮はあまり感じられなくなった。心理士のアドバイス「家事や植物の世話など日々のルーティンをこなして生きてる実感を得ろ」という教えは正しかった。自分は素直な性格なので、信じている人にこうしろ、と指示されるとその通りに実行し、効果が得られることが多い。占い師にしろ、心理士にしろ。

 

親はあなたの人生はこれからだ、あともうちょっとで自立できるというが本当なんだろうか。一生独身はつらい。でも一人で生きていくしかない。パートナーがほしい。でも先に死んでほしくない。自分はパートナーとか二者関係になると途端におかしくなってしまう。

 

メンタライゼーション、面白い考え方だと思う。

要するに他者の心を想像することなんだろうけども・・・。

ある作家のスピーチに、感心した。

そのスピーチは他者の心を想像することは、自分で選択できる考え方の一つだ、とのこと。自分で考えられるというのはそういうことだ、と。

確かにそうだ。表面的、画一的な見方だけでなく、もっと「この人は実はこう思っているのかもしれない」という多角的な視点、メンタライゼーションが自分には必要。

私は表面的にしか他人を見ることができない。というか自分のことでいっぱいいっぱいになると視野が狭くなって、他者という刺激物が目や耳に飛び込んでくるのがしんどくなる。

例えばこれが植物だったら、「素敵だな」「おはよう!」みたいに元気よく話しかけられるのだが、人間になってしまうともう駄目だ。仲良く人間と接することができない。

なんでだろう。予想できない返事、態度をされるとムカついてしまうのだ!なんて表面的な、馬鹿な自分なんだろう。他人は他人、人の気持ちは変えられないという基本的な事実が、この年齢になっても分からない。メンタライゼーションの障害なんだろうか。

いや、もっと奥深い事情があると思う。自分は生きたい、誰かに助けてもらいたい、助けてもらえる、恩返ししてもらえる、何かしたら何かいいことが返ってくるという思想がある。なんというか、ポジティブでいたら、ポジティブな願いが叶うみたいな。

基本的に人に対する信頼感もある。心理士のことを信じているのもそういうことだと思う。でも信頼しているからこそ、たまに裏切られたり、自分の想定と違うことをされると、ムカついてしまう。相手に期待しすぎているのだ。

でも、その期待感、信頼感は、人を愛したり、好きになったり、信用する上で、とってもとっても必要となる力だと思う。だから自分のバカみたいな人に期待しちゃう力って、とっても強みでもある。

信頼するけど、信頼できない(人はいつか離れてしまう、死んでしまう)ということ、そのアンビバレントな部分を自分は耐えられないのかもしれない。

アンビバレントさ、そうだ、自分はちょっと好きだけどちょっと嫌いとか、そういう両価的な思いを受け止めることができない。

ムカついたと思ったら「殺すぞ!」と言ってしまう(あくまで例)。

でも、本当は「ちょっと話聞いてよ!離れないで!」って寂しい気持ちだったりする。

そういう複雑な気持ちを自分でみつめて、正確に言葉にすることができない。

「寂しい」という気持ちが大きくなると、「死にたい」「死んじゃうかも」みたいな言葉の表現になってしまう。

でも、本当は寂しいんだろうね。

そういう言葉のラベル表記が少し異なっているのだ。

そういう、こころの奥深い精神分析的な解釈、自分で出来るようになれば、心理士は必要ないのでは?と思う。心理士の考え、分析を、信頼しているのであれば自分の脳内にインストールするのだ。例えば「きっと心理士さんならこう発言するだろうな」と心理士の立場から物事を考えてみるとか。でも心理士の解釈は難しくて、まだまだ自分では分からないことが多い。言われて「そうだったのか!」と気づくことも多い。

今はその「そうだったのか!」という解釈をどんどん集めていって、解釈の妥当性を上げているところだと思われる。

あと5年で自分は良くなると思う。

それは心理士のマインドがインストール完了するのが、あと3~5年ぐらいかかるからだと思うからだ。あと、心理士がいつ亡くなるのかわからないから、そのぐらいの年数でインストールが完了したいという自身の願望もある。

 

いや、5年は長いな。5年って言ったら、自分は36歳。

身体もボロボロなんじゃないか。

でも生きていたい。また桜も見たいなと思う。

楽しく、朗らかんに、桜みたいに生きたいなと思う。

菜の花でもいいな。

楽しいこと沢山したいなと思う。

旅行も行きたいなと思う。どこがいいかな。ドラえもんミュージアムでも行ってこようかな。

 

楽しく生きていこうね。