nekohirokoroom335の日記

何がなんでも楽しく生きるって決めたのだ。

順調に生きている(楽しいし、よく寝ている)んだけど、何か大きな病気にかかって死んでしまうのではないかと恐怖におののいている。

検査のバイト、少し増えたらいいなと思っているが、こころのリハビリ中なのでその時間配分が難しい。。。1泊2日ぐらいの旅行には行きたいし、中休みで平日休みたい。

楽しく生きたいと思っていたが既に楽しく生きているようだ、親の金で。

料理をしてそのあと片づけるのが人生なのかもしれない。

ちゃんと稼いでみたい気もする

SCの募集が10月ぐらいだったから、あと来年の春から秋まで休んでみたいと思った。

でもきっと仕事はある。大丈夫。

 

最近、日曜日に近くのカフェに行ったら、お昼ごはんの時間帯で子連れがわんさかいて、食事が出てくるのが遅かった。

でも私は何回もそういう場面に出くわしているので、最初にドリンクバーを頼み、自分で優雅にお茶をしながらご飯が出てくるのを余裕で待っていた。

自分の中で余裕が出てきたのを感じる。

前もって対策すること、反対に世の中にはコントロールできない場面があることを知った。うまく対処できた例だった。

昔は調剤薬局で薬剤師が態度悪そうにしていると「あの人態度悪い」とかいちゃもんつけてた。でも、それはいろんな理由で態度が悪くなっているのかもしれないし、非難できないし、自分も完璧な態度を取っているかと言ったらそうでもないし、自分が同じ立場でクレーム言われたらいやだなと思った。

他人にやられたら自分が嫌だと思ったことは、他人にもやらない。

自分=他人ではない。他人が考えていること、作り出した状況は変えることはできない。

自分はコントロールしたがる。躁状態の時はそういう傾向にある。「謝れ」とか「なんでそんなことするの!」とまくしたてたり。相手を脅かすことで、自分が怒っていることを示して、謝罪させようとする。それはよくない。

でもコントロールしようとしている、ということは、生きようとしていることなのだ。

コントロールできないけど、自分なりに上手く予測したり対処したり、あるいは「どうしようもない」と割り切ることが、自分の人生を「生きる」ことなのだ。

自分は躁状態になる前はコントロールしようとしなかった。他人に関与しようとしなかった。今は人にすごく興味がある。でも歩幅を合わせたり、うまくツッコミいれながら相手のことを大切にする、という適度な距離感が取れない。

旅行に行くと、自然の川や海、山に囲まれ、人と会話することがない。

多少寂しいが、自然のパワーをもらっているので話しかけてもらった気になる。

自分はちっぽけな人間だ、大いなる自然に守られているという感覚は、自分が「コントロールできない」感覚につながり、いい意味で「どうしようもないことは、どうしようもない」と割り切ることができるようになった。明日の仕事、憂鬱だけどケーキ食べて頑張ろう、早めに寝て明日に備えよう、とか現実的な対処で割と気持ちが落ち着くようになった。

 

レモンやハイビスカスを育てているが、それらが適度な気温や水分など栄養が与えられるとすくすく素直に育っているのをみて、とても嬉しくなる。自分も親の愛情、セラピストの見守りなどいろんな心の栄養をもらって、すくすく育っているのかもしれない。レモンみたいに黄色く実る日がいつか来るといいな、と思った。

植物はある程度放っておいても根が出たり花が咲いたり、生命力がすさまじい。

自分もそういう潜在的に眠っている力強さ、生きてやるぞ!という生命力があるのではないか。レモン=自分なんじゃないか。

きっと大丈夫だと思った。

 

というわけで、旅に出たいです。

次は富士山見たいな。

 

チャーミングな自分でありたい。

最近、神様にお願いするときは自己紹介するように「こんにちは。○○と申します。~の件でご相談です。~が~の方向に行きますように、具体的には○○が起きるといいなと思っています。神様どうぞよろしくお願いいたします。」と具体的な相談内容、実現したいこと(現実的に可能な範囲で)を言葉にして、神様にお願いした。具体的には、今やっているバイトの拡張版みたいな仕事が週1ぐらいであって、スキルアップできますように。それから応募したバイトが受かりますように、とお願いした。きっと受かる。まあ落ちてもいいんだけどw占いでも具体的な悩みを1個言うように、と指定する占い師がいるが、それと同じ感覚かもしれない。これは田口ランディのエッセイから身に着けたやり方なんだけどね。

 

いい感じ、地に足のついた生活を維持しましょう。

頑張れ、私。