nekohirokoroom335の日記

何がなんでも楽しく生きるって決めたのだ。

魂を大事に生きていこうね

マツコデラックスが「芸能人として魂を売ってしまったらダメな気がする」みたいなことを言っていた。

よく分かる。私の仕事も、対人援助職ではあるが魂を売ってしまうと心が死んでしまう。でも魂がない対人援助職は人を癒すことはできない。そのジレンマにある。

よく”本物”の心理士、とか”本物”の師匠を見つけることが大事、というが、本物っていうのは実際には存在しなくて、どの対人援助職もそれぞれ欠陥を抱えながら、一生懸命相手と向き合っているだけだと思う。ただ、その一生懸命さが裏目に出てしまって、魂が削られてしまったり、苦しくなるタイプ(まさに私)がいる。また、そういう”魂”を常に全開にして生きている人間は、むしろ対人援助職に向いていない気がするのだ。

いや、正確には社会的に知られている心理士とかケアワーカーとかそういう類の職業じゃなくて、シャーマンや占い師、小説家とか、いろんな形で魂を生業とした仕事の方が向いている人もいれば、反対にシステマティックに感情を伴わない仕事に振り切ってしまった方が楽に生きられるのかもしれない。

--------

私の夢は、心理士としてロールシャッハ職人などアセスメントの道に進むこと(心理面接は魂が削られてしまう)。

大学に属して研究を続けること。そしてエッセイストやライターなど執筆業もやってみたい(芸人のバービーさんは憧れのコラムニスト!)

中学時代、銀色夏生谷川俊太郎の本を読んでたんだけどさ、ああいう素敵な感性の大人が書く文章って楽しいんだよね。私もああいう人になりたいな。

--------

さて、私は意外と元気に生きています。相変わらず論文の進捗具合は良くないですが、学部時代の友達とジャージャー麵を食べたり、M1と仲良く会話したり、12時間睡眠を取ったり、とにかく心身ともにリフレッシュしてきました。

久しぶりに会う友達に博士課程にいることを馬鹿にされないか心配だったけど、「その道を極めててすごいね」って心の底から言ってくれて、すごい嬉しかった。

こういう優しい人たちもいるんだって思ったら、すごくすごく嬉しかった。

自分は大学の狭い世界にいつもいるから、外から見たら、意外と高度な研究に取り組んでいるように見えるのかもしれない。ちょっと自信がついた(お世辞だとしてもそれでいい)。

自分のやっていることに自信をもって、楽しんで研究に取り組もうと思った。

そして、こういうお友達や家族、近所の美容師さんや整体師さんとか、サポート・メンテナンスしてくれる人たちをずっとずっと大切にすること、おいしい飲み物を飲んだり自然に触れたり、日常の小さな幸せを噛みしめてつらい時は思い出すこと、こういうことを心がけていけば、きっとなんでも乗り越えられると思った。

--------

大丈夫、大丈夫。

もし博士号が取れなかったとしても、適当にバイトすればいいじゃん。

別に今の領域や分野にこだわることはない。そこでもきっと新しい発見があるよ。

なんでも行動、挑戦してみないと。不安になってるだけで死んじゃうのはもったいないよ。頑張ろうね。

 

何も考えず、眠剤飲むべし!

少し気分が立ち直っている。

なんでだろう。

①生理が終わった、②ゼミにちゃんと参加した、③きちんと睡眠をとった、④元カレと和解した。

どれでしょう。

でも私は、相変わらず論文は書けていません。

書きたいと思っているけど、大した内容は書けないだろうなって思ってしまう

どうせアクセプトされないだろうと思ってしまう。

価値がない論文なら最初から書くなと。

私は前からそうで、自分に自信がないと、「最初から挑戦しない」という手段を取る。

最悪の想定のもと、自ら難易度を落としたものしかトライしない。

「確実」なものを求めている気がする。人生にそんなものなどないのに。

-----

元彼がすごい優しかった。第三者の前で喧嘩して怒鳴りつけたのに、二度と会わないとか言わないで、またおいで、色々抱えてると思うけど応援してますって言ってくれた。

私の支離滅裂な精神状態に対して、「どうした?」と私の目をちゃんと見て話を聴いてくれた。そして、「そっか。○○だったんだね」と伝え返してくれたのが、本当に本当に嬉しかった。心が落ち着いた。大人になると、人に迷惑をかけると嫌われたり、距離を置かれるものだけども、こうやって30歳になった今でも「ちょっと話しようよ」って場を設けてくれたのがすごい嬉しかった。まるで不良少女が先生から職員室に呼び出されて、優しく諭されているようだった・・・(笑)

私よりよっぽど心理士に向いてる・・・。というか、心理士よりもすごいことをしている、彼は。

人生捨てたもんじゃないし、これから楽しいこと沢山あるかもしれない、そのたびにいろんな人たちに支えてもらって、こうやって生き延びていくのかもしれない、となんとなく思った。

-----

ゼミに参加したところ、今大学内で様々な行事がスタートしているらしく、その行事の買い出しに必要なメンバーとして、後輩たちが声をかけてくれた。「一緒に買い出しに行きましょう」と。めちゃめちゃ嬉しかった。後輩と言っても社会人などいろんなバックボーンがある方たちなので、年齢は様々なんだけども、そういった他者とのかかわりが生まれて、すごい楽しかった。

なんか、ゆるい絆が生まれている気がする。月日が経つと、こうやってただ指導教員が同じというだけでも、仲間意識が芽生えるものなのだと学んだ。

その行事は結構大がかりで、他のお客様もいらっしゃる(+ウェブ配信あり)ので、痩せなきゃと思った。今まで身内だけだからいっか、と思ってたけど、急に他者の目が入ったので、久しぶりにどんな服装で行こうか、どんなジャケットを着ようか悩んでしまった。それまでにジャケットが入るように痩せなければいけないんだけども・・・。

-----

ちなみに、自炊を初めて1か月経つが、体重が2.6kg落ちました。

すごい。自炊すごい。

ちょうど上記のように「痩せなきゃ」と思ってたので、ちょっと結果が出て嬉しかった。ちなみに、自炊して外食を控えたことは痩せた要因の一つだけど、別の要因もある。今出てる眠剤、「なるべく早めに夕食を済ませて胃を空っぽにしておくこと」と指示されており、それを忠実に守るようにしたところ、眠気がちゃんときて長時間寝られるし、暴飲暴食は控えられるしで、結局それが一番痩せた要因な気がする。

-----

まぁそんな感じで睡眠時間の確保と、生理周期の乱れが整ってきたこと(珍しく生理痛がほとんどなかった)、ゼミ生や元カレとの交流が私を立ち直らせたと言ってもいいだろう。身体と心のケアって両方大事なのね。

生きていこうね。

 

でも時々無性に死にたくなるよ。どうしたらいいのかな。

時々パニックになって、動悸が止まらなくなる。

博士号取れなかったら・・・(社会的に死ぬのでは?)。このまま体調不良が続いたら・・・(まじで死ぬのでは?)と。

-----

まぁ今は考えずに、閉店ガラガラ、今日はおしまい。

眠剤飲んで寝ちゃいましょう!

最近は9-17時営業みたいなリズムが自分の中にあって、日が暮れると「もうそろそろ寝るか」とぐーたら時間に移行していきます。だからもう閉店。何も考えず、眠剤飲むべし!

おやすみなさい。

 

感情がない透明人間になりたいなぁ

なんにも書けない。ブログも博論も。

すごく気分が落ち込む。イライラする。ご飯がおいしいと思えない。

フワフワしためまい、頭と心がつながっていない感じがする。

 

最近はとにかくイライラしてしまって、いろんな人たちとトラブっている。

以下はプチトラブルの一覧だ。

 

①大学の先生

私はここ最近多忙で、某機関に投稿する論文を書いていた。

投稿予定の論文を、とある先生に投稿前に確認してもらったところ、私の文章の書き方がとてもよくなかったらしく、傷つく言い方で「書き方が悪い」と徹底的に指摘された。冷静に考えて、確かに私の書き方は論理性に乏しく、博士課程のくせに論文のお作法をマスターしていないと自分でも思うし、指摘する内容に間違いはない。

ただ、それをまるで私がどうしようもない馬鹿な存在で、呆れたような言い方で非難された(と私は受け取った)。

それで心をやられてしまった。

だから、メールでわざと嫌みのような、わざとらしく、指摘してくれたことを感謝する旨を送り付けて、やり返した(返信なし)。

②元カレ

元カレと些細な出来事をきっかけに大喧嘩になって、第三者がいる前で怒鳴ってしまった。これはさすがに詳細書くとまずいので割愛。

③コンビニ店員

近所のコンビニの店員ともプチバトルになった。私がそばを購入した際に「温めますか?」と店員に聞かれないので、「温めてもらえますか?(怒)」と語気を強め、ムスっとした感じでお願いしてしまい、店員さんがおびえていた。「なめてんじゃねーぞ」という心の声が態度に溢れ出ていたようだ。いつもその店員は態度が悪く、私の中では元から評価が悪かったのだが、最近の私のイライラがMAXになってしまい、いつもなら通り過ぎてしまうことに対して怒ってしまう。

④大学の図書館職員

大学の図書館に文献取り寄せをお願いしたところ、すでに取り寄せ済みなのに連絡が遅れていて、数日間放置されていた。私は急ぎで論文が必要だったため、電話で状況を問い合わせたところ、私が怒っているように思ったらしく、図書館の職員に「申し訳ございません」と謝られた。うちの大学の職員は、学生に対する態度が悪すぎることで非常に有名なのだが、そんな舐め腐った職員ですらビビっているということは、私が相当怖かったのであろう。

 

大体そんな感じだが、もしかしたら無意識的に、他にもいろんな周囲の人々を怖がらせているのかもしれない。

今私が受けているカウンセリングの中でも、自身の攻撃性は度々話題にあがり、「自分自身でも抱えきれないぐらいの攻撃性があるのでは」と心理士からも指摘されているが、最近はなぜだが一時的に攻撃性が過度に高まりすぎて、まるで人を殴ってしまうのでは、いや殺してしまうのでは、と思ってしまう。

そんなある日、ニュース速報でオイルを電車内に撒き散らし、人々を殺そうとした犯人が捕まったと聞く。人々は「あんな奴、死刑にすればいい」と言うし、私もああいった自他の区別ができなくなってしまった、正常な思考ができない人物は処罰が下るべきだとは思う。

ただ、自分と他者の境界線がわからなくなって、まともな判断もできず、相手にイライラをぶつけてしまったり、感情を上手くコントロールできない私は、程度の差はあれど、その犯人と本質的には変わらないと思う。そして、世の中の人たちが言う「死ねばいいのに」という存在に値するのではないか、と思う。

つまり他人を怒ってしまう自分がすごく嫌で、怒ると同時に死にたくなる。

このままこの攻撃性が高まり続けていたら、いつも怒ってる人に思われて誰も近寄ってくれないし、友人もいなくなる。サポートしてくれる人も減るだろう。

 

そういうことを、こないだ心理士に相談した。

心理士は、私が攻撃性を心の中にずっと秘めており、自分を押し殺してきたが、それが今解放されて、自分らしく生きていく過程にいるのかもしれない、と言っていた。

ただ、その攻撃性の出し方が、いままで我慢していた分、上手く発散することができず、ワーッと相手にぶつけてしまったりするのではないか。そして、今はその攻撃性をちょうどいい感じにする練習中で、一時的に攻撃性が高まっているだけかもしれない、と述べていた。

心理士の見立ては私をホッとさせる。病的なものじゃないんだ、って思えた。

ただ、怒りのコントロールの練習を30歳になってようやく始めたなんて、なんて私は成長が遅れていて、人に迷惑かける存在なんだろうか。普通の人は子どもを産んで、子どもに怒りのトレーニングをさせている段階なのでは?

まだまだ精神年齢が中学生ぐらいで止まっているのかもしれない。

でもこの怒りのエネルギーをうまく発散するというか、一時的に「カッとなりそうな自分」を避難させる対処法があるといいなと思う。

まだ人間に対してうまく怒りを表現することは苦手なので、自分がリラックスできたり楽しいと思うことに、エネルギーを有効活用したい。

その例として、とりあえずイライラを抑えるために、謎のハーブティー中国茶を飲み、近くの花屋さんでかわいい花を買って、ケーキを食べた。

一瞬収まったけど、やっぱりイライラする。

だから今度は音楽を聴いた。聖歌やビヨークの歌を聴いてみた。落ち着くし、ビヨークのユニークさ&スピり具合が最高だった。ちょっと落ち着いた。

こうやって、ちょっとした自然に触れあったり、スピリチュアルなものに触れるのは私が癒される瞬間かもしれない。さらに、文章に書き起こすのは私の得意なこと。

今ブログを書いていて、少しイライラが収まった。

こうやって、なんかちょっとしたことで幸せを感じたり、ふと安らぐ瞬間をこまめに味わう良い癖をつけないと、あかん気がする。

 

今度大学時代の友達と夜ごはん食べる。楽しみだけど、友人の些細な一言で傷ついたり、落ち込んだり、攻撃的になってしまわないか、とても不安である。

それに、そもそも当日ドタキャンされたら、それはそれで悲しいし攻撃的になりそうで怖い。

楽しく、仲良く、緊張せずに誰かとお話したいけど、まだ人間と関わるのはちょっと怖い。

 

うー。

感情がない透明人間になりたいなぁ。そんなことを思った。

To 未来のうつ状態の自分へ

医者に躁状態と言われた。うつ状態に転落しないために、睡眠時間を確保しろ、と言われ、睡眠導入剤を追加された。

 

今は躁状態で楽しいこといっぱいあるけど

躁鬱の気分の波に左右されず、人に嫌われずに、死にたいと思わずに、ネガティブなことが起きずに生きていきたい。

そして、お金持ちにならなくてもいいから、自立できるだけのお金を稼ぎたい。働きたい。

なんでうまく生きていけないんだろうって思う。

今うまくいっている論文執筆作業も、ある日突然うつ状態になって、書けなくなってしまうのだろうか。

突然身動きが取れなくなって、「死にたい」という気持ちで100%になってしまうのだろうか。

どうしたらいいのか。

怖い。落差が怖い。考えただけでも死にたくなる。

 

でも、日常にある小さな幸せを嚙みしめて生きていきたい。それはうつ状態の時も躁状態の時も、ずっとずっとその感覚は大事にして、失いたくない。

今日は枯葉が公園に沢山落ちていて、思わず写真に撮った。紅葉になりかけていて綺麗だった。黄色の大きな楓を集めている小さな女の子がいて、手に楓を握りしめて公園を走り回っていた。かわいいなって思った。自分も一緒に楓を集めたくなった。

こういう幸せを、うつ状態になった時も感じられるようになりたい。そうしたら、うつで塞ぎ込んでいる時も、公園に出てみようと思えるから。

 

そんなことを思った。もっと感覚的に生きたい。子どもみたいになりたい。

 

To 未来のうつ状態の自分へ

楽しんで生きようね。きっと元に戻るから死ななくていいんだよ。

きっといいことが起きるよ。

自分の攻撃性と向き合う

次のカウンセリングが3週間後になってしまったので(週1でセラピーに行くお金を親が出してくれなかった)、自分の気持ちが楽になる方法を見つけ出さないといけない。

 

前回のセラピーでは心理士から「あなた自身が抱えきれないぐらいの攻撃性があるんじゃないか。その他者に向けるエネルギーが、何かミスをしたときなどに自分に向いてしまったとき、強く“死にたい”と思うんじゃないか。それはとてもつらいと思う」と言われた。そして、「その攻撃的なあなたは、ここのセラピーでは現れないでほしい。エネルギーが強すぎて怖いから(笑)」と言われて、すごく悲しかった。その通りだと思ったから。私は人に怖がられてるんだと思った。元カレにも同じようなセリフを吐いたことがあるけど、私自身がそういう攻撃性の向け方をしているようだ。元カレを見ていると、自分を責めたり考えすぎたり、一方で相手のミスを許せなかったりして、もっと気を楽にしたらいいと思っていた。ふわ~っと生きるっていうか、別によくわからない曖昧な物事に理由を付けないで、「まぁそういう日もあるか」って思えると楽になるんじゃないかって、すごい思っていた。それを、まさかセラピストに同じことを言われた。

--------

他人や自分のことを「許す」ってすごい大事なことだと思う。それができたらどんなに楽なんだろうか。人に何か傷つく言葉を言われたとき、「なんであの人はあんなことを言ってきたんだろう」って理由を考えちゃうんだけど、平均的な人って自分でも説明できないけどなんか口から思わず出ちゃったとか、機嫌が悪かったとか、割とどうでもいい理由が多い。「この人を懲らしめて、傷つけたい」と深い意図があって私を傷つける人なんて、ほとんどいないんじゃないか。そうだとしても、一時的なもので、時間が過ぎ去ればそういういじわるな感情もなくなるんじゃないか。

そう考えたら、人間は単純な生き物なのかもしれない。もっと楽しんで、分からないことも「まぁちょっと不安だけどなんとかなるか」って、あえてなんにもしないでやり過ごす、そういう術を身に着けたいなって思う。

--------

でも私はセラピストに対して怒りが湧いた。

私のこと、怖いって思ってるんだって。

受け止めてくれてないと思った。

私の体験した話をニコニコ聴いていたけど、それは他人事だからで、自分の身になると怖くなるんだって。正直言って死ねばいいと思った。でも死んでしまったら私は誰に相談したらいいんだろうか。向こうも抱えきれないと思っているんだろうか。

自殺したい。死にたいと思ってしまった。好きな人、信頼してた人にフラれた気分だ。この“死にたい”も、本当は心理士に向けた内なる攻撃性なのだろうか。

--------

怒りが制御できない。でもこの怒りを何か創作活動に使ったり、人のためになったり、自分を奮い立たせる何かに使えないだろうか。

でもそんなエネルギー、使ってたら疲れるだけなんだよな。

怒りっていうのは性質というか治らないもので、うまく応用するしかないんだろうか。怒りを消し去るというのは、自分を押し殺すことになってしまうのだろうか。

だったら、その怒りを有効活用したほうがいい。というかその怒りに気づかず30年間も生きていたんなら、変えようがない。若い頃に色々指摘されて気づいて、もがいて、治すように努力していたなら変わっていたのだろうけど、もうおばさんだからな。

でもこのまま意地悪なクソババアになりたくない。私のいいところはチャーミングな部分も持ち合わせているところだから。可愛げがあるから。だからそのチャーミングさ&怒りを上手く組み合わせて生きられるとちょうどいいのになぁと思う。

--------

まぁ、怒ってる人って世の中に沢山いて、仕事のボスなんかもいつも怒ってたけど、その怒りが誰かを救いたい気持ちだったり、人を理解する原動力になったりする。ボスの場合、「なんでこの人はこういうことを言ったんだろう?」「この人とどうしたらうまく付き合っていけるんだろう?」と、合理的に物事を考えて、理屈に合わないことは排除する性格だから、逆に言えば合理的なことができない人たちの気持ちを考えようとする。曖昧な世界を理解しようとする。「わからない」を知ろうとするモチベーションになっているように思える。

私だって、人間関係も分からないことだらけだけど、勉強のことだって、論文を読んでいて「よく分からない」という“ひっかかり”を大事にして丁寧に論文を読むと、いろんな知見が得られることが多い。その“ひっかかり”は研究や勉学においてはすごい大事な能力だと思う。それに、その“ひっかかり”は、平均的な人が気づかない側面や世の中の真理を見抜くある意味貴重なセンスだと思う。

私のアセスメント能力(人のことを見抜く力)は、ある意味その“ひっかかり”、「納得いかない」「よく分からない」を大事にして、その違和感から人物像を見立てる力なんだ。だから、自分の感覚はある意味正しいし、優しいからこそ「なぜそのようなことを言うのか」気になってしまうのだ。

--------

私は例えば、久しぶりに会った人に「太ったねぇ~!」と体型をいじられたりすると、「なんでそんな無神経なことを言えるのか」と落ち込んで、心の中では怒りで満ち溢れる。向こうは「つい口がすべって言ってしまった」と弁明するのだが、そんな一言、仮に思ってたとしても言わなければいい話だし、今の時代、体型や肌の色など容姿のことをdisるのは時代遅れって分からないのか!と思ってしまう。

そういう、「暗黙の了解」というか、「大人の対応」というか、「考えたら(相手が傷つくと)わかるよね?」というデリカシーのない一言を放つ人が大嫌い。

でも、そういう自分の“ひっかかり”が、他者を思いやったり(自分はこういうことは言わないようにしよう)、自分のことを大事にしようと思ったり(体型のことは気にせず自分を愛そう)という原動力になったりする。だから、自分のひっかかりはすごく繊細で、傷つきやすさと混じってるんだけど、それが自分の生きるポリシーになったりする。

だからいいんだ。強く強く、孤高の人になろう。そして、怒ってもいいけど、他者のこともたまには許してあげて、自分のことも許してあげて、強くなろう。

 

そんなことを思った。

誰も死んでほしくないな

suchmosのベーシストが亡くなった。

凄い悲しい。別にすごい熱狂的なファンじゃないけど、当たり前に存在すると思ってた人物がいなくなってしまうのは、本当に悲しい。

三浦春馬の訃報の次ぐらいに、落ち込んでいる。

死因はわからないけど、心身共に疲れ切っていたのだろうと推測して、以下の記事は書きますね。

----------

音楽って自分を表現したり、本人を含め誰かを癒す表現方法だと私は思っているんだけど、そういう生業の人が、心身ともに疲れてしまったのであれば(あくまで推測だが)、「何をもってして人は癒されるんだろうか」と考え込んでしまう。

 

かなしい。かなしい。

 

おしゃれな服着て、おしゃれな音楽聴いて、髪型も整えて、それなりにインスタに楽しそうな写真をアップしている私がバカみたいだ。

私は表面上取り繕っているだけで、他者がその裏で苦しんで死んでしまいたいと思っているとしたら、私の行動は馬鹿げている。

私は仕事として、もっとひとの心の奥底に触れるような、魂を揺さぶるような、心のケアをしたいと思っている。そんなこと私にはできないけど(それこそ、人のしんどい部分を見て苦しくなるから)、音楽家の皆さんのように、私も誰かの魂の回復につながるような、深い深いなにかを提供したい。それってなんなのか分からないけど。カウンセリングかもしれないし、小説かもしれないし、このブログかもしれないし・・・。分からないよね。

でも、今回の訃報を聞いて、強くそう思った。亡くなってしまった人たちの魂も含めて、ひとを魂を揺さぶる仕事をしたいなって強く思った。

誰も死んでほしくないなって思った。エゴイズムかもしれないけど。

父親の存在に救われて死にたくなくなった

昨日あたりから自殺願望が薄れてきた。死にたい率30%ぐらいだ。

ちょっと死にたいと思うこともあるけど、「今にも死んでしまいそう」とリアルな感覚は少なくなった。今は穏やかに過ごせている。嵐の前の静けさかもしれないが。

死にたくなくなった理由はいくつかある。まず一つは父親とスカイプしたこと。父親は前向きでかつ論理的な思考ができるかっこいいお父さんって感じで、私は信用している。アカデミックな会話にもついていけるし、死にたいと言っても受け止めてくれる、器の広い人なのだ。そんな父親に昨日スカイプしてどうでもいい日常会話をしていた。父親が昔に尿管結石になってしまい、石が尿管に詰まっている間、猛烈な尿意が止まらなかった話をしていた。その時に父親が「人間は単純な生き物で、刺激から反応を受けているだけなんだと判った。尿管結石だって、“石が詰まる”という“刺激”から“尿意を感じる“という“反応”になっているだけ。実際、石が身体から出た瞬間、尿意は消えた。自分の主観的に感じているもの(思考・感情・感覚など)は、人間の自我から生じるものではなく、人間が刺激を受けた際の生理的反応にしか過ぎない」と話していた。

その話を聴いたとき、「死にたい」という主観的な気持ちも、もしかしたら単純に外からの刺激に反応しているだけかもしれないと思った。例えば、ホルモンバランスの乱れや睡眠不足でイライラするかもしれないし、低気圧や雨の日が続けば気持ちもどんよりする。そうやって、人間は外からの刺激(=自分ではどうしようもないこと)によって、簡単にメンタルがやられてしまうのだと思った。

私の双極性障害も、おそらく脳内の働きがうまく機能していないのだろうけど、それも自分ではどうしようもないことで、そんなことで死にたくなっちゃうのなら、自分のせいではないし、他人のせいでもないし、誰のせいでもないと思った。

だから、死にたくなった時も、「あぁ、今日はうつっぽいのね」って感じで、自分を責めることなく、軽く自分の中で飼い慣らす必要があると思った。例えば、赤ちゃんが大声で泣いていたら、「あぁ、ミルクが欲しいのね~」みたいな、適当に理由をつけて安心するみたいに。

そしたら、きっと大丈夫だと思った。

あとは父親と話していて、なんだか単純にほっとしたのもある。どうでもいい親子会話をしたり、日常の会話をしたり、大した内容じゃないけど、お茶を飲みながらおしゃべりできたのがすごく嬉しかった。死にたいと話したときも、過剰に反応するわけでもなく、ユーモアある感じで「“死にたい”っていうと悲しくなるから、“消えてしまいたい”とか、“お星さまになりたい”とか、言葉をマイルドにしてみな!」と言われて、言葉を置き換える遊びを二人でして、笑いが起きた。そういう些細なことが、すごくすごく嬉しくて、なんだか抱きしめてくれたように感じた。

最近、夢で父親が私を抱っこしてくれる夢を見たんだけど、それが現実になったような感覚がした(書いたら涙が出てきたぜ・・・)。

 

そんな感じで、家族のサポートは手厚い。すごい助かってる。

相変わらず博論は書けないし、明日ゼミなんですけども、なんとか乗り切ろうと思う。具体的な策は何も考えてないけどなんとかなると思ってます。

それじゃあね。