nekohirokoroom335の日記

何がなんでも楽しく生きるって決めたのだ。

いい方向に向かいたい

あんまり日記に書きたくないんですけど・・・。おじいちゃんが大腸がんになった。ステージは3か4ぐらい(ほぼ確定情報)。

私はついこないだまで便秘に苦しめられており、下剤を飲んでなんとかやり過ごしていた。その一方で、おじいちゃんも便秘に苦しんでいた。しかし、おじいちゃんは血便。ただの痔だと思いつつ、念のため病院で精密検査をしたらガンが見つかったらしい。

泣いてしまった。私は普段便秘じゃないし、痔の経験もほぼないので、このシンクロニシティにもびっくりしてしまった。おじいちゃんの「助けて」というメッセージだったのかもしれない。

おじいちゃんと私は本当に仲が良くて、二人きりで旅行にも行ったし、私が博論を書き終えて世の中で活躍することを楽しみしていてくれた。

でも、正直おじいちゃんが生きている間にその夢は叶えられないと思った。

普通だったら、「おじいちゃんが喜んでくれるように(安心できるように)、博論頑張ろう!」と奮起するんだろうけど、私はまだそのモチベーションまで到達してない。ただただ、悲しい。悲しいのにおじいちゃんのためになるような行動が起こせない。

自分は馬鹿だと思う。向上心がない。投げやりに生きている。

これから入院してガン治療が始まるんだろうけど、その病院の付き添い・お見舞い・入院の手続きとか、きっと私も手伝うことになると思う。

博論を進めながらおじいちゃんのケアもする。そして自分のセルフケアもする(自殺しないように気を付ける)。

そういう状況です、今。

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苦しいけど、生きていることの重みというか、自分がこうやってブログに文章を書けているのも当たり前のようで当たり前じゃないのかも、と思った。

自分だっていつ死ぬか分からない。でも投げやりじゃなくてちゃんと楽しく生活したいと思った。おじいちゃんの死がリアルなものになったとき、私の「死にたい」という気持ちは徐々に薄らいでいった(でも薄らいだだけ。根底に”死にたさ”はずっとある)。死んでる場合じゃないというか、おじいちゃんを看取ってから死ななきゃと思った。そして、必然的におじいちゃんだけではなく、両親や兄が先に死んでから自分も死にたいなと思った。最期まで一緒にサポートしたいと思った。

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おじいちゃんのガンが発覚する数時間前に、自宅で簡単に弾ける電子ピアノを購入した。普通のピアノより小さいサイズ感だけど、なんだか楽しそうだと思った。

友達にバンド組もうって誘われたのも購入した理由の一つ。

普通のピアノは真っ黒だけど、私は真っ赤を選んだ。

値段は18000円もした。いつも通ってるセラピーが1回6000円なので、セラピー3回分のお値段になる。高いね。でも、毎週のようにセラピーに通って「死にたい」と連呼しセラピストを困惑させるぐらいだったら、ピアノを弾いて楽しく生活したほうがよっぽど健康的だと思った。これが趣味になるといいなと思う。

なにか夢中になるもの、楽しいって思えるもの、こころがしんどくなった時に気持ちを切り替えるものに出会いたい。

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 昨日のセラピーでは、心理士から「あなたの"死にたい"という感覚を、もう少し説明してもらえる?」と言われた。私は「周りから石を投げつけられて、痛いし身動きが取れない感覚。しかも集団リンチみたいに囲まれて大量の石が投げられる」「道端に咲いている花が私だとしたら、それに気づかない人たちに足で踏みつけらる感覚」と表現した。

 心理士は「その”石を投げてくる””足を踏みつける”何者かについて説明できますか?」と再度質問した。私は「普通に社会で働いてる人。うまく世の中に溶け込んでる人。その人たちは、悪意があって私を傷つける人と、悪意はなく傷つける人と半々」と説明した。

 そうしたら、「あなたは人より傷つきやすく繊細なのかもしれない。その分、働くとなると、人に気を使ったり思い悩んだりして、強く痛みを感じやすく、死にたくなるんだと思う」と心理士に言われた。

 続けて、「そういう意味では、大学に残っているのは、あなたにとって安心できる場所だからかもしれない。そして、博論を書き終えて卒業するのが本当は怖いのかも」と言われた。その通りだと思う。前からそう思ってたことを言葉にはっきりされると、「当たり前じゃん」と思う一方で、「そうそう、それで苦しんです」と胸を張って言えるからちょっと良かった。

 そして心理士は「人より疲れやすい分、フルタイムで仕事しなくてもいいと思う。ちょっとバイトして、社会と接点を失わないようにすればいいのでは?大学との縁も完全に切らなくていいと思う」と言った。私もそうしたい。でも、そんなことできるのかな。フルタイムで仕事しないで一体どこで衣食住を満たしていくの?「私は3年後、どこで何をしているか全く想像できないし、生きてるかわからない」と心理士に言っておいた。軽く反抗してやった。ちょいムカついた。心理士は「いや仕事は必ずあるしきっと働いている」と明るい見通しを伝えてきたけど、そんなことはどうでもよかった。

でもこうやって話を聴いてくれる心理士さんも、いつかおじいちゃんみたいに病気が見つかって死んでしまうんだろうか。そう考えると反抗して「死にたい」とセラピーで言っている自分がバカみたいに思えた。

いや、正確には反抗しているわけではなく、単純に"死にたい"から"死にたい"と言っているだけだけども、「死んじゃダメ」という方向性で会話してくる心理士にムカついている自分もいる。なぜ安楽死モルヒネの使用は許されるのに、自殺は許されないんだろうか。"個人の自由じゃないか"と問い詰めたい。でもそんな「死んじゃダメ」と言ってくるセラピストにムカつきながらも、お金を払い通っているのは、私も心のどこかで死にたくないのかもしれない。

ここ最近”死”についてずっと考えている。いい方向に向かいたい。