nekohirokoroom335の日記

何がなんでも楽しく生きるって決めたのだ。

昨日心理士と喧嘩した。

いちいち喧嘩した内容は書かない。s先生とトラブった感じと似ている。

関係性が続くといいなと思ってる。それには私が素直になる必要あり?

心理士は、死にたい気持ちが「つらい」というマイルドな言葉に変わってくるだろうと述べた。それは、死にたいと一括りにされている感情から、悲しみ、寂しさ、怒り、憎しみなどいろんな感情が含まれており、それらを一つ一つ分解して、「あぁ寂しかったんだな」とかって思えると、それが「死にたい」から「つらい」に変化して、しんどさがだいぶ軽減されるのでは?と言われた。

恋愛はまだ早いみたいなことも言われた(すぐ死にたくなるから)

 

仕事は、「死にたい」じゃなくて、「しんどい」「つらい」と表現できていること。

それから、面接の場でも「〇〇さんにこう言われた」と事実を描写することはできるけど、その時に感じた気持ち(特にネガティブな気持ち)を正確にラベルにして貼り付けることができない。だからラベリングが間違っていて、すぐ「死にたい」と一括りにしてしまう。死にたいと表現することで相手に困っていることをアピールできるけど、死にたいと表現することで、自分自身も正体がつかめない謎の感覚に圧倒されて、死にたいというインパクトのある言葉にも圧倒されて、本質がつかめないまま死にたくなる。

これは元カレのきゅーちゃんと一緒じゃないか。お腹が痛いという状態を「〇〇で悲しい気持ちだ」と言語化できないから、お腹が痛いまんまで、解決しない。

自分の気持ち、わからないからお腹が痛いんじゃないか。吐き気がするんじゃないか。

本当はムカつく気持ち、相手に一言言ってやりたい気持ち、やり直したい気持ち、行動を変えたい気持ち、行動したい気持ち、誰かと話したい気持ち、たくさんあるんじゃないか。

それと一緒で、もうちょっと感情を詳しく見ていって、細分化できるようになるといい。

 

セラピストにはお腹がシクシク痛いのと、チクチク痛いのは、質的な痛みは違うけれども、痛みの強さは一緒で、死にたいほど痛いと言った。

質的な痛みの変化を聞いたところで死にたい気持ちはなくならないと言った。

 

でも、それをky-ちゃんに当てはめてみると、チクチク痛い、シクシク痛いは同じ「身体の痛み」なわけで、それを「心の痛み」に変換すると、いろんな思いがまた細分化されるんじゃないか。例えばシクシク痛かったら、ここの部位が悪いですよとか、○○病ですよ、とか、具体的な原因と対策が分かる。シクシクとチクチクで、どこがどのように悪いのか、ラベリングできる。それって全然違うのではないか。

 

ただ、死にたいという気持ちは一生なくならないし、どんなに悩みがない状況下でも死にたくなるし、楽しく生きられない。躁状態にもなる。

それは心理士が対応できる問題じゃないんだろうね。

「死にたくなるほどつらい」という何か原因と対策がある死にたい感情じゃなくて、ただただ死にたいって感じかな。

そう考えると、躁鬱病ってどうやって克服していいのか分からないな。

やり過ごすといっても、津波みたいにドカーンと鬱と躁がやってきて、人に迷惑かけるだけ。コントロールできない。

 

そうやって考えていると具合が悪くなってくる。

死ぬとか生きるとか考えないで、今日1日、どうやって楽しく過ごそうか、それしか考えたくない。今日は本当は名古屋に行きたかった。

でもお風呂に入れなくて辞めた。近所の美味しい餃子屋さんに行こうかなと思ってる。

人間は快と不快の2択しかなくて、楽しいことをしていれば楽しくなるし、死にたいと思ってれば死にたくなる。だからハッピーに生きていいのだ。

でも、どんなに本郷三丁目プリンアラモードを食べても、ハイビスカスを楽しんでも、死にたくなってしまう。

 

自分の死にたくなる像ってどんな感じなんだろう。絵が上手な人だったら、その死にたい自分像みたいなの書けるのかな。坂口恭平さんみたいにさ。

死にたくなるって、多分世間の目も気にしているよね。働けないとか、精神科通ってるとか、処理速度が遅いとか、いろんなこと。他者から見た自分は小さくて、暗くて、自信がない。でも、もっと明るくて楽しくて、パリとかに住めば、金髪のきゃりーぱみゅぱみゅみたいな髪型して楽しく過ごしてそう。人の目を気にしているように見える。

不登校の時にクラスメイトにどう思われているか不安でしょうがなかったあの時と似ている。「きもいって思われないかな」とか。そんな感じ。

でも、そういう凝集性の強い日本、というか東京から離れたら、大分生きやすくなるんだと思うね。ということで、もうちょっとで華やかで楽しい自分っていうのに出会える気がするんですよ。バルコニーでバジルなんか育てちゃったりして。

海外の髪の毛チリチリのボンバーヘアの女の人がタンクトップに短パンで街歩いているとかっこいいなと思う。イギリスの上品な貴婦人が庭でバラやハーブを育ててるの見ていると、いいなと思う。海外のあの自由な、自分の空間が流れている感じがいい。

まぁ、とにかく不登校の時の自分が、31歳になってもいるわけ。

もういいよね。卒業しようよ。楽しく生きようよ。

死にたい8割、生きててよかった2割の人生だった。

それを生きてて楽しい10割にしたい。

死にたい像を分解させたりよく観察させるのではなくて、なるべく快の刺激を増やして、忘れさせる。「あれ?こんな自分いたっけ?」って思わせる。

なるべく影を薄くしていく。濃度の濃い楽しい時間を増やす。

今、この時を楽しく生きる。

ピラティスやってもいい。植物育ててもいい。せいろで美味しいゆで卵作ってもいい。

何してもいいんだよ。だからね、もう自分を許すの。

他人が「処理速度おせーな!」と怒鳴りつけてきても、へーと流すの。

他人は勝手に人のこと評価するんだから、自己評価でわざわざ最初からネガティブになる必要ないの。自分の評価が高い方が、「なんかこの人元気そうでいいね」「友達になりたいな」って思えるんじゃないか。

他人の評価が気になるといいつつ、それに固執して自分らしさが発揮できないの、バカなんじゃないか。他人の評価を気にしないで(どうせ勝手にされる)、楽しく生きたほうが絶対にいい!!!!!!!!!

 

てか、楽しいことしようの基準が高すぎる。

お茶を飲んだり、ハイビスカスを愛でるだけで、もうおっけー

今日1日頑張ったでしょ。

そういう幸せを感じる「あぁ生きててよかった~」みたいなじわっと幸せ色がにじみ出てくる感覚を、もっとぎゅっとぎゅっと抱きしめて味わった方がいい。

海外に行ったとしても、世界中を巡ったとしても、その今幸せだと思う感覚を、少しでも嫌な気持ちがふっとぶ瞬間を、もっともっと味わった方がいい。

 

自分は感性100%になりたい。もっとmおばさんみたいにスピリチュアルになりたい。楽しく生きたい。